高山さん本当にありがとう


新社会党大阪府本部委員長 山下慶喜

 

  高山さんが亡くなったと聞いてあまりの突然さに声もなかった。なんでそんなに早く逝ったのか。思えば党の憲法記念日の行動としてJR吹田駅で宣伝することになり、高山さんも参加されていた。その日は結婚式だったのか、スーツ姿で「全逓ジャンパーもいいけど、これも似合うやろ」と笑っていたが、これが最後の会話となった。本人の話ではないが高山さんで浮かんでくるのは全逓ジャンパーを羽織って集会に参加している姿である。本当に全逓ジャンパーのよく似合う労働者だった。カットを描くのも得意で、この日も急遽有事法制反対の看板にカットを書き入れてくれたらしい。


 「病気のデパートやねん」と笑ってはいたが、高山さんは幾つも病気を抱えこんでいた。ボロボロなのに、そう見えなかったのは少林寺拳法の経験があったからだろうか。病体でありながら、合宿になると仲間の肩や腰を押したりひねったり手当てしてくれた。私も幾度かお世話になった一人で本当に気持ちよかった。


 飲むのも好きだった。飲むと駄洒落を連発、「全逓の連中は聞き飽きたかもしれんけど」といいながら楽しそうだった。後輩の面倒見もよく、いろんな相談に乗っていた。飲む席での相談は組合員だけではなく、飲み屋さんの関係者もいた。そんな中で、私の範疇だと思うと「相談にのってくれへんか」と電話をかけてきた。


 競争、競争の社会は郵政職場も同様で、DMの増大など仕事は増え、人事評価もきつくなる一方。ストレスは増大していった。無理しての労働から心身の故障をきたす仲間が増えていく。しかし組合には、かつて「権利の全逓」と呼ばれた面影はない。


 仕事優先の職場になり、組合幹部さえ仕事の遅い人、病気がちの人を後回しにしがちになる。そんな中にあって、弱い立場の組合員が最も頼っていたのが高山さんだった。何でも話せて、弱さも出せる。本気で心配してくれる高山さんは職場のお父さんともいうべき存在になっていた。弱い者でも安心して働くことのできる職場を作りたいと、活動しつづけた高山さんは「権利の全逓」を体現した人だと思う。


 ここ一、二年は高槻局から大阪中央局に配転になり、違う職場で慣れない人間関係、そして仕事。大変だったろう。通院を続けながら、組合業務の引継ぎや党などの活動で高槻に頻繁に足を運んでいた。本人の自覚はなくとも無理に無理を重ねた日々が死を引き寄せることになったのだろうか。残念でならない。


  人の世話ばかりやって自分の事はいつも後回しだった高山さん。本当にお疲れさまでした。そして多くの想い出をありがとう。私達は弱い立場の人を考えつづけたあなたの生き様に学びながら生きていきます。本当にありがとうございました。

 

 2002年7月  偲ぶ会追悼文集