*加世田高校1年の時の原稿。当時となんら変わっていないですね。

 

新しい社会を

                

 高校にはいってまず気づいたのは、生徒手帳はまちがっているのではないかということだった。人格の完成をめざして、知育、徳育、体育の調和をはかる。しかし、そうとは思われない。補習、毎日のように行なわれるテスト、特別学級の設置、科目の一方的変更、これらは知育にかたよりすぎている。

 

 このような現状をみて、私たちは高校は予備校ではないと反発する。これに学校側は次のように答える。「あなた方の大部分が大学進学を希望している。そのためにはこのようなことをしなければ、あなた方の希望をかなえさせることはできないのだ。大学進学はたやすいものではない。そのためには高校では勉強だけでいいと。その他のことは大学に入ってからせよ」と、我々は反論する。我々が大学進学を希望しているのは事実である。でもそれだけをするために、入学してきたのではない。我々は何でもやりたいのだ。それは高校でしかできないのだ。それを大学でやれとは。「合格」の二文字のためのテクニックを習得するだけでいいのだろうか。現状が好ましくないと思ったら、それを改革するべきだと思う。

 

 勉強の他には見向きもしないで、なんのために大学へ進学するのだろうか。「中卒者、高卒者のような低賃金で苦労するのは、いやだから大学へ行く」というのが過半数の本当の気持ちではないだろうか。楽をするために進学するのは、なんとなく気がとがめるので、なにかと理屈をつけるように思われる。

 

 そして、彼らはパチンコの王のようにふりむくこともなく、定められた道をすすむ。つまり○○大学卒というレッテルで、その人の社会においての価値が決定される。彼らを迎え入れる社会は、汚れているところが多すぎる。

 

 そうなったのは、為政者の国民不在の政治による。ある国民不在の例をあげよう。アメリカから購入しょうとしているFX機とガン対策費をくらべればわかる。5分間に一人の割合でガンによって死んでいく。どちらの予算をふやすことが、国民の安全を守ることになるのだろうか。しかし、彼らだけをせめていいものだろうか。彼らを選んだ国民の眼を疑うべきだと思う。

 

 このような社会に対して高校生が政治に関心を持つのは当然である。高校生は勉強さえすればよかった良き時代は過ぎた。我々はまだ社会を見る眼がないと大人はいう。我々もいおう。あなたたちはそれがあるのかと。

 

 君達は高校時代をなんとなく過ごしてはならない。何でもいい、何かをつかんで卒業するべきだ。とある人がいった。全くだと思った。

 

 我々は正しい野党精神をもち、新しい社会の建設に尽さなければならない。

「加世田」(加世田高校 校誌) 三号 1969年3月25日