鮮明に残る戦争の痕跡と記憶

安慶を訪問して

 安慶市へは3回目の訪問となる。過去2回は議会の友好都市交流の一つとして訪れていた。行くたびに驚かされるのはその急激な変化である。特に大都会である上海は高速道路、空港が急速に整備され、住宅建設も進んでいる。市民生活も大きく変化しているのではないだろうか。上海では列車が出発するまで時間があったので、みんなで車中のビールととつまみを確保しようと出かけた。進出している日本のスーパーに入ったが、こちらとほとんど変らない。生鮮物にこそ見慣れないものがあるものの、ビールはキリン、アサヒ、サッポロ、サントリーなど各社の銘柄が揃えられ、カップラーメンも日本と同じように並んでいた。

 

 上海駅の電光掲示板は日本語、英語の表示があり北京、成都、合肥への出発時刻を知らせていて、国際化の一面を見せてくれる。

 

 ただ同じ中国でも今回廻った旧日本軍の陣地や飛行場の跡地はかなり郊外にあり、車窓から垣間見られる人々の生活環境は都市と農村では大きく変る。レンガづくりの質素な家が多くなり、澄んでいるとはいいがたい池で洗濯している。せっけんを使っている様子もない。都市と農村の経済格差は日本の何倍にもなるのだろう。

 

 タクシーの大きさは上海、合肥、安慶の順に小さくなり、乗り物もバライティに富んでくる。同じように幌をつけた三輪車でも、前部がバイクだったり、自転車だったりする。また運搬もトラックだけではなくて、荷車も一般的に使われており、合肥や安慶の街中で多く見かけた。郊外の農村部に入ると1950年代の日本の農村風景を思い出させるものがあり、親しみを感じてしまう。

 

 スモッグが安慶でも、合肥でも絶えることはなかった。高層の合肥のホテルから、眺望を写真に撮ろうと思うが、かすみで意欲がそがれる。これは石炭を燃やして暖房するためと説明があった。透き通るような青空であれば中国はもっと美しいのにと残念でならない。

 安慶で出迎えてくれたのが顔なじみの汪暁護さん。公式の交流の席やこれまで訪問した時にも通訳をしてくれていた人懐っこい人で、久しぶりの再会を喜びあった。

 

 安慶では長江のほとりにある振風塔に登った。高く聳え立った建物で見晴らしは抜群なのだが、柵はないのも同じですれ違うにも神経が張り詰め、登るにつれて足がすくむ。2度目であってもやはり怖いものは怖い。誤って落ちたら死ぬ可能性は高いと思うのだが、事故はないのだろうか、柵の設置は議論にならないのだろうかと思ってしまう。下りてきたら記念写真の撮影者とお客さんだろうか原因はわからないが、大ゲンカが始まった。取っ組み合い、追いかけまわる。人だかりの中、そのケンカはしばらく続いた。ともかく怒りを爆発させてのケンカはスカッとして、申し訳ないが見ている方としては面白かった。衆人監視の中、素手だけのケンカだったので心配しなくてよかったせいもあるだろうが…。

 

 省都合肥の街中を歩くと安徴省教育委員会の近くに、新聞の見開きを掲示しているコーナーがあり、その上に赤布に黄色で「熱烈慶祝中華人民共和国成立五十周年」の横幕が張られている。いかにも中国らしい。しかしそこから1〜2分歩いた先にあるDISCOは若者で満杯。入口付近は往きも帰りも混んでいたが、世代間のずれみたいなものはどうなっているのか聞きたい気になった。

 

 なお訪問中は良く食べ良く飲んだ。アヒルの舌に豚の尻尾、蜂の巣、カラスの足、蛇のから揚げ・・・・、中国では全てが食材になるように思えてしまう。いつしか材料は何かと聞くのが食前の習慣になった。朝からバライティに富んでいる上に、量も多い。昼と夜はもっと贅沢になり、更にアルコールが加わる。自制すればいいのだが、ついつい口に入れてしまう。これで太らないわけがなく、早起きして湖岸を走ったものの焼け石に水、2キロ以上は重たくなって帰る羽目になった。

 

 さて2年前の本会議で「安慶市との友好をもっと内実の伴ったものにするために、安慶と日本との関わりを知る事が大事ではないか」と質問したことがある。「日本軍は上海から揚子江を溯り重慶を攻撃した。その戦略拠点になったのが安慶で、激烈な戦闘が繰り返された」との資料を元に質問したのだが、今回の訪問もその間の状況がどうだったのか、日本軍が何をしたのか、調べるのが大きな目的だった。

 

 安慶には今でも日本軍支配の痕跡が数多く残されており、人々の抗日戦争の記憶は鮮明だった。解放後日本軍に殺された人々の骨が掘り出された郊外の飛行場跡、15m四方に広がる爆撃によってできた大きな穴。日本軍との戦闘で死んでいった何千名の人々の納骨堂、安慶から飛んで来た日本軍機による空襲で50名近くが殺された話、日本軍に捕らわれた20数名の女性が裸にされ、動物を扱うように街中を歩かされた話・・・・。中でも日本軍が駐屯した懐寧県査家竹園で、夫が日本兵に足を切られやがて死亡、女手一つで行商をしながら子どもを育ててきたが、その息子さんもベトナムとの闘いで戦死したと語る汪さんの印象が強烈だった。

 また安慶の市内を歩いていると偶然東南中学記念碑にぶつかった。「抗日戦争期間、学校三度遷徒」と記されており、抗日戦争(私達は「太平洋戦争」「大東亜戦争」と地域名をかぶせていうものの、中国でははっきり日本の侵略に抗して闘った戦争と言う)で三度も学校が移転せざるを得なかったことがわかる、恐らくこんな碑はいくらでもあるに違いない。

 

 市長は私の質問に「日中共同声明で不正常な状態が終わった。お互いもうこれ以上過去のことは言わないという大きな定めが国対国の中である」として、市段階での調査は考えていないと答弁した。

 

 「過去のことは言わない」とは、被害者が大きな心をもって過去の罪を許しましょうということであって、加害者がいえる筋合いのものではない。ましてどのような事実があったのか調査する気もないでは不遜のそしりを免れないだろう。

 

 今回の調査によって少しでも中国安慶市との交流が改善され、茨木市民の意識改善にもつながればと思う。

 2000年10月 ピースあい 」の報告集掲載分