茨木市議会議員 山下けいきHP

 

国民保護関連条例に反対する討論

2006年3月23日

私は議案第7号国民保護協議会の条例、議案第8号国民保護対策本部、緊急対処事態対策本部の条例に反対の立場から討論いたします。

「木を見て森を見ず」の言葉があります。判断する際に細かい点に注意しすぎて大きく全体をつかまないという意味であります。私は先ず森を十分見渡すために、なぜこの条例が提案されるに至ったか、その背景、性格、目的は何かということから始めたいと思います。

条例の元になる国民保護法は時代や国民の要請によってつくられたものではありません。私が中学校の時、三矢研究が大きくマスコミに取上げられたことがありました。これは第二次朝鮮戦争を想定した自衛隊内部の研究です。日本の自衛隊と在日米軍がどのように共同対処するのか、国家機関、国民の総動員態勢をどう確保するのか、統合幕僚会議の幹部が極秘に研究したものであります。

この研究の最初にあったのが国家総動員対策の確立でありました。まさに戦前の国家総動員法の亡霊が、今から40年前に自衛隊の中でよみがえっていたのであります。これは軍がいかに国民を動かしていくかという観点に立っており、今回の国民保護法もその点で本質はまったく一緒であります。まさに制服組の長年の執念が実を結んだものと言わざるを得ません。また陸、海、空の三軍一体化進められており、シビリアンコントロールも弱体化されつつあります。

またこの国民保護法が、戦争を想定する武力攻撃事態法などの有事法制とセットであることは皆さんご承知の通りであります。これらの法律等は、「日本が他国に攻撃されたときの対処を定めるもの」と説明する政府自身が「今すぐわが国に武力攻撃を加えてくる国や勢力はない」と答弁しています。とすれば、実際に想定しているのは、日本がアメリカとともに他国を武力攻撃する事態しかありません。

平和憲法を無視してつくられた警察予備隊は保安隊を経たのちに、自衛隊となり、1996年の日米安保共同宣言、新ガイドライン、周辺事態法、テロ対策特措法、戦場であるイラクへの派兵など、今や軍隊として世界有数の戦力を保持するまでに至っています。また安保条約によって米軍の一部であるかのような役割さえ担うようになっています。

実際、国民保護法が単独ではなく「米軍行動円滑化法案」や、首相の判断で港湾、空港、電波などを米軍や自衛隊が優先的に使うことができる「特定公共施設利用法案」、有事の際に役務も弾丸も米軍に提供できるアクサ改正案などの関連法案として出されてきたことは、この法案の性格、目的を如実に物語っています。

法案では日本政府が「武力攻撃が予測されるに至った事態」と認められると判断すれば、「戦時」になります。しかしこの判断すらアメリカの判断である可能性が高いのであり、日本の主体性がどれだけ確保されるかさえ心もとない状況にあります。

 またこの法案は、「戦時」に対応するためだけではなく、社会を作り変えることも目的だと私は考えます。「平時」、つまりふだんから、役所を中心にあらゆる機関を「戦時」態勢に作り変えるために、組織を整え、訓練をしなければなりません。住民参加の避難訓練も実施されます。自主防災組織や地域ボランティアが協力を要請される場面も考えられます。「戦時」に備える意味を国民に理解させる「啓発」、つまり教育をすることになっています。

「国民の協力は自発的な意志にゆだねられ強制はしない」となっていますが、協力しないと、土地や家屋が没収されたり、罰金を取られたり、懲役を課されたりします。これでも、「協力は自発的な意志にゆだねられて」いるのでしょうか。

本会議質問でも指摘しましたが消防庁のモデル計画にある「国民はその自発的な意思により、必要な協力をするよう努めるものとする」の文言は、まさに国が国民の思想信条を踏みにじり、内心の自由をうばうものであります。

また隣組の言葉も出てきます。隣組は広辞苑によるまでもなく国民統制のためにつくられた地域組織であります。「火垂るの墓」という映画がありました。疎開先でぶらぶらしている主人公の少年が「お国のために何もしない」といっていじめられ、最後は隣組に入っていない少年は配給を受けることができずに妹が栄養失調で死んでしま います。

それほど遠くない歴史の教訓から、また今日進行している憲法改悪に向けた一連の動きからして、私は国民保護協議会が地域社会による監視統制システムの一端を担う危険をシビアに見ておく必要を強く感じています。


 国民保護計画の中心にあるのは「避難」です。しかし避難用の幹線道路を自衛隊が優先的に使うべきと総理大臣が判断したら、住民の避難はどうなるのか。 また何がどのように起こったとき「武力攻撃事態」、「武力攻撃予測事態」と認定するのか。数万人、また数十万人の規模の避難場所はどこにつくられるのか。本市から100キロと離れていない原発が攻撃された場合どう対処するのか。琵琶湖が汚染された場合、近畿に住む事はできないのではないか。避難地の収容施設は誰がいつつくるのかなどなど疑問はつきません。

国は「国民の生命を守る」ためともっともらしくいいますが、まさにこれは眉唾ものであります。

最近だけでもアメリカ産輸入牛肉に対する甘さ、耐震偽装に、アスベスト、また過去にはサリドマイド、スモン、エイズなど、政府が国民の命よりも企業財界 、アメリカの利益を優先していることは明らかです。もちろんこれは幾度も大きな事故を引き起こしてきたにも関わらず、今なお老朽化した原発を停止させるどころか核撚サイクル事業をそのままに推進している事にも現れています。

「国民の生命を守る」ために、最も必要なのは外交によって諸外国との平和的な関係を築いていくことです。しかし政府にはアメリカ一国主義、アメリカへのこびへつらいしかありません。米軍基地再編は岩国市民が否定しただけでなくアジア諸国にも警戒と不安を呼び起こし、緊張を高めています。平和外交とは全く無縁です。政府関係者が口にする「国民の生命を守るため」という言葉に今や国民の多くがしらじらしさを感じているのではないでしょうか。

 この議論の中で、地方自治体としてよりよい保護計画をつくれとの指摘がなされています。私もいいものをつくる事に異議はありません。

しかしこの計画は政府の基本方針に沿って組み上げられるものであって、実際の計画には政府の細かなチェックが入る事は容易に予想される事であり、自治体の自主的な計画は一顧だにされない可能性が高いと私は見ています。

またこの国民保護法の背景、性格、目的からして、また地方自治体を国家の指揮権の中に全面的に組み込む法体系の中にあって、このことは極めて困難といわなければなりません。至るところで地方自治の本旨が踏みにじられてい くのがこの有事体制の本質でもあります。

更に言えば戦争のための法律、条例、計画に、平和のための施策を盛り込む事、それ自体が、「木によりて魚を求む」の類であって、求めることが無理だと私は判断します。たとえ出来たとしても運用の段階で全く意味をなさなくなるのではないか、それどころか物事の本質を覆い隠すイチジクの葉っぱとしての役割を果たすだけではないかと、危惧するものであります。

今必要なのは過去の戦争の反省に立って、戦争を二度と繰り返さないことを決意することです。残念ながら今年も市長の施政方針からは平和の記述が消えていました。私は市長が想定しようのない架空の武力攻撃事態を想定した国民保護計画をつくるのではなく、平和政策、平和教育に真剣に取り組み、みずから他国の人々とともに平和をつくり出す姿勢を求めたいと思います。

そのことによって、市民の危険を除去し市民を保護していく、つまり平和的生存権を保障、確保していくべきだと考えます。

そのことを最後に申し上げ、議員各位のご賛同をお願いして私の討論を終わります。ありがとうございました。