茨木市議会議員 山下けいきHP

 

 

議員報酬条例改正の原案に賛成し、

日本共産党、公明党の修正案に反対の討論

2011年3月8日

私は市長が報酬審議会の答申に沿って提出された原案に賛成し、日本共産党、公明党の修正案に反対の立場から討論します。

昨今、公務員の賃金が高い、議員の報酬が高い、公務員も議員も数が多すぎる。「コスト削減こそ正義だ!」と言わんばかりに人気の高い首長が公言し、マスゴミがこれを報道する中で、公務員や議員の削減や賃金や報酬の引き下げがまかり通っています。

また市民の生活が困窮化しているのだから、市町村長、議員、公務員も痛みを共有しなければならない。だから削減だとの声も多く聞かれます。しかしこのような考えは本当に正しいのでしょうか。私は実に薄っぺらな、本質を糊塗する議論であり、議員の果たすべき役割についての認識が欠落していると思っています。またこんな考えでは民主主義も市民生活も守ることはできないと考えるものです。以下、私の考えを申し上げ、皆様のご賛同をいただきたいと思います。

まず議員報酬は議員の職責に対する対価であります。議員報酬を考える際に、いまさらながらですが、「議員の職責は何なのか」から出発したいと思います。

皆様には釈迦に説法かもしれませんが、議員は住民の直接選挙によって選ばれ、住民の代表者として、市民の要望や願いを届ける役割を担っています。

議会が開催されれば、市長が提案する予算、条例の制定や改廃、人事案件の審議、また議会として、条例の提案、国などへの意見書の提出、また市民から請願・陳情を受理し処理する職責があります。

議員の大きな役割として議会での質疑を中心とした行政のチェックがあります。本市では市長以下、正職員、非正規職員合わせて約3000名の皆さんが、一年365日、公務に従事されています。

市の職員は行政の専門家であり、市行政全般をチェックしようと思えば、私たちが猛勉強しても、なかなか追いつかないというのが私の実感です。

また末端自治体である茨木市には、昨今の「地方分権」を口実に、府からの権限移譲が相次ぎ、事務事業の範囲は拡大し、事務量も増加の一途をたどっています。

茨木市のこれから審議する一般会計は約830億円、特別会計も含めれば1500億円弱の予算に上ります。これが何に使われるか決定するとともに、適正に執行されているか監視し、執行後の事務事業評価もしなければなりません。これらの調査検証だけではなく、今後は政策条例の立案者であることが求められ、そのための時間も確保しなければなりません。常勤でなければできない仕事であることは明らかであり、議員は他に仕事を持って片手間でできる仕事では到底ありません。

また市会議員の仕事は議会だけではありません。市民に一番近い政治家であり、議場におられる皆さん方にも多くの相談や要望が寄せられていることと思います。その日のうちに解決できるものもあれば、何カ月もかかるものもあります。もちろんゆっくりとしている時もないではありませんが、住所、電話番号まで公表しており、土曜、日曜、早朝、夜間に関係なく市民から声が寄せられています。

このように議会活動を中心した、広範囲となる行政のチェック、種々の法律や制度の調査研究、政策提案に加え、市民相談に応じ、市民への情報提供や啓発を含むものが議員の職責であり、その内容に濃淡こそあれ、多くの議員がこれらの活動に携わっていることと思います。

名古屋の河村市長は議員の職業化を強く批判し、「議員はボランティアで行うべきだ」とし、「議員が税金で身分保障されることに日本の民主主義が成熟しない根本原因がある」と主張しています。

しかし先程申し上げた議員の職責を自覚し、活動するとなれば、それは専従、専任でしかできないものです。弁護士が自分の専門能力を使って人助けをし、社会正義を実現して生計費を得たりするのと同様、世間的に専門職といわれるものだけでなく、事務労働、肉体労働を問わず、どんな仕事も実際は専門職であります。河村氏がいうように、ボランティアで専門的な議員活動となれば、それは経済的に恵まれた一握りの層に限られ、ゆえに、それは民主主義とは無縁のものであります。

自治体議員が自分の能力を使って行政をチェックし、税金の無駄遣いをやめさせ、行政を良くし、市民の幸福増進を図り、生計を立てることを専門職とし、また自らの天職として続けることを批判されるいわれはどこにもありません。

しかしながら、このような議員の職責、活動の全容はなかなか市民の皆さんには知られていません。議会傍聴に来られる方はまだまだ少なく、市議会のホームページを見られる方もわずかです。ましてや本会議や委員会の会議録まで目を通す方がどれぐらいいらっしゃるでしょうか。

また地方自治体において、市長と議会は二元代表制として、ともに住民を代表する機関として対等であり、互いに自己の権限を行使し、牽制しあうことで円滑に地方自治が運営されていくことが期待されています。

しかし市長は、自治法において当該普通地方公共団体を統轄し、これを代表するとされ、予算の調製・提案・執行権等々で、現実面において強力な権限を有しています。加えて市職員全体のトップでもあり、マスコミの取材対象も議会よりは市長となっています。そのため二元代表制とはいえ市長と比べ、地方議会やその構成員である議員の存在感が薄くなりがちなのは否めない事実ではないでしょうか。 

それゆえに私たちには市民に議会の重要性や活動がこれまでより、もっとわかるように、現在進行中の議会改革や議会広報の改善に努めることはもちろん、議員個々も紙媒体にとどまらず、時代に合わしてホームページ、ブログといった広報手段にも取り組んでいくなどの努力が求められています。


さてこのような議員の職責に対する報酬についてであります。

 地方自治法 第八章 給与その他の給付の第203条に基づき、議員には報酬及び期末手当が支給されるとあります。しかし自治体議員の報酬を規定する原理原則や法的根拠が確立されているとまでは言えません。
 戦後できた「国会法」の第4章「議員」の第35条の規定に、「議員は、一般職の国家公務員の最高の給料額より少くない歳費を受ける」とあり、国会議員の歳費は中央省庁の事務次官級の給料を下回らないとされてきました。これを一つの根拠として、自治体議員にも適用し、多くの自治体では「部長級の金額」を議員報酬の基準にしてきた経過があり、本市も同様の対応をとってきたのであります。

 さて、議員は議会の解散等を除き4年ごとの選挙において一定数以上の有権者の信託を受けなければなりません。選挙で落ちれば職を失う厳しさをもっています。また実質常勤並みに働いていても身分は非常勤の特別職であり、退職金はありません。

更に「平成の大合併」の結果、議員共済年金も破たんし、今後は国民年金だけの議員が多数を占めることになります。

しかしそうであっても地方議員は政治家として原理・原則や理想を語り、それを貫ける一面も持っている数少ない職業であり、私だけでなく、ここにおられる議員の多くが誇りを持って活動しているのではないでしょうか。

 一部の恵まれた人を除き、議員多くが報酬によって家族を含めた生活を営んでいます。その点で、その生活費となる報酬をその自治体の部長級の金銭に合わせることは何の特権でもありません。上昇志向ではなく、正義感をもった若い人が本市の議員を目指し、その職責を十二分に果たしてほしい、そのためにも現在の報酬ぐらいは保障されるべきだと思っています。

 また議員報酬と言っても、それはまるまる生活費として使われているわけではありません。複雑多岐に渡る現在の行政をチェックし改善向上させていくためには、議員が種々の調査研究をしなければなりません。そのための経費は一応政務調査費で賄われますが、その延長にある行政の実状や問題点を広く住民に情報提供したり啓発したりして住民の知見を高め、住民参画を促していく議員からの広報については対象外とされているために、議員の業務に関連する多大な広報経費は報酬から支出しなければならない事情があることも指摘しておきたいと思います。 

企業・団体等のスポンサーはなく、また企業・団体献金を受けとれる大政党でもない議員にとって、議員報酬はみずからの生活と活動に直結した問題であり、削減競争であるかのごとき軽々な議論は、議員みずからの存在を低めるものではないかと強く感じています。

今回、共産党、公明党のみなさんからは報酬大幅カットの修正案が出されました。その根拠は財政が厳しい状況にあり、議会も身を削って範を示すべきだということであります。しかしそれは私に言わせれば単なる俗論への悪しき迎合であり、そこには高邁な理念も、議会や議員のあるべき姿や将来の展望もありません。

 財政面からいえば厳しい時代からこそ、議会がこれまで以上にがんばって、何がムダで何が必要なのかを見極めることが大事だと考えます。私が見る限り、行政内部においてトップダウンがまかり通っている感は否めず、職員が自由闊達に必要な時間は十分確保しての議論がなされているようには思えません。行政のチェックができるのは制度的にも実質的にも議会に勝るものはないと私は考えます。その議会費は全予算のわずかに1%に満たず、議員報酬はその一部に過ぎません。それを削るよりも残りの99%がどうなのか、そのチェックこそ、市民が議会に求めている役割ではないでしょうか。

 議員報酬引き下げの議論で血を流せ、身を削れ、痛みを共有しろ・・・等々の言葉が徘徊していますが、この言葉に「贅沢は敵だ」、「欲しがりません、勝つまでは」と国中を戦争一色に染め上げて行った歴史を想起するのは、私だけでしょうか。国民に窮乏を押し付けながら、自らは贅沢三昧、そういった連中はいつの時代にもいるものです。「国民生活が大変だから、私たちも我慢する」の思考では何も変わらず、状況は悪化するだけです。

かつて社会運動家、アナキストの大杉栄は1世紀ほど前の「奴隷根性論」で、「政府の形式を変えたり、憲法の条文を改めたりするのは、何でもない仕事である。けれども過去数万年あるいは数十万年の間、われわれ人類の脳髄に刻み込まれたこの奴隷根性を消え去らしめることは、なかなかに容易な事業じゃない。けれども真にわれわれが自由人たらんがためには、どうしてもこの事業は完成しなければならぬ」と記しています。

国民主権の世の中になっても、この奴隷根性に毒され、支配者のイデオロギーに負けて、思考停止に陥り、自ら我慢の説教師に堕したのでは庶民は報われません。なぜ、貧富の差は拡大しているのか、なぜ地方自治体は財政危機に陥ったのか、それを明らかにし、原因をつくった者たちに責任をとらせるというのが本来の筋であります。またその根本からの変革しか正しい道はないと私は考えます。

議員報酬に関し、審議会答申に沿った市長提案にこれまで賛否はあったものの、修正案が出されることはなかったと記憶しています。それだけに今回の修正案提出は4月の統一自治体選挙を目前に、市民の目を意識した「削減競争」と言われても仕方がありません。

加えて「みんな黙って、じっとがまん」の風潮をあおり、社会の閉塞感をますます募らせ、何よりも大切な主権者意識の低下につながるものである以上認めるわけにはいきません。

 最後になりますが、ますます議会の役割が大きくなり、毅然とした地方自治体が期待されている時に求められるのは、議員活動の制限につながるような報酬切り下げではなく、憲法の理念に沿った議会なり議員像を目標にした議員個々の切磋琢磨、研鑽であることを最後に申し上げ討論を終わります。ご清聴ありがとうございました。