茨木市議会議員 山下けいきHP

 

「日の丸」の一方的掲揚に反対する討論

 

  私は議場への「日の丸」の一方的掲揚に反対する決議に賛成する立場から討論します。この決議は表題にあるように議会全体の合意に基づかないまま、一方的に「日の丸」を議場に掲げようとすることに、反対するものであります。

 

 決議にありますように、これまでの議論の中で5会派のうち、2会派が強く反対しています。また議場への掲揚は議事堂の財産管理権や、議長の事務統理権といった法的問題点も存在することも重ねて指摘しておきます。

 

  掲揚に賛成の議員諸氏は、国旗国歌法の制定を「日の丸」を議場に掲げる根拠にしていますが、なぜ議場なのか、その根拠は極めて薄弱であり、なんの説得力もないどころか、その背景に極めて憂慮すべきものを感じます。賛成する会派の主張の中に、市民の代表である議員は、「郷土を愛する気持ちの表現として国旗及び市旗を掲げ」とありますが、このことは議員たるもの「郷土を愛する」気持ち、「国を愛する」気持ちをもつのは当然という主張であり、ここには郷土が愛すべき内実を備えているのか、国が誇りを持つに値する国なのか、疑う事ことすら否定する考え方が何の躊躇もなく示されています。この考えは個々の議員が持論を喧喧諤諤と戦わす議会にはふさわしくないものであります。

 

  また昨今、政府が「日の丸・君が代」を通じて、国家など集団への帰属意識を深めさせるとして教育現場に処分をちらつかせて強制しています。

しかし、憲法は国家を国民への奉仕機関と位置付けし、天皇を含め公職にあるものは全体への奉仕者であり、憲法を遵守する義務を課しています。憲法は戦前の偏狭な国家主義の反省に立ち、国家のための国民ではなく、国民のための国家であるとしており、いたずらに国家意識を植え付けようとする事は、現在の憲法の下では許されるものではありません。

 

  また「市民の代表である議員は」としていることは議員個々の心情すら勝手に決めつけるものであり、二重の過ちを犯すものであります。

 

  戦前の偏狭な国家主義は皇国史観がその骨格をなしておりました。戦前の歴史教科書では万世一系の天皇という史実を歪めるウソがまかり通り、100歳以上の天皇が12名も存在し、中には140歳を超えた天皇が2名、在位が100年以上あった天皇までいたと教えられていました。学校の試験には「100歳を超えた天皇をあげよ」といった問題まで出されました。今では誰もが疑うことすら、当時は真理とされ、疑問を呈せば不敬罪として処罰されたのです。 そして現人神である天皇のために死ぬことが、皇国臣民として最高の美徳であり義務とされました。「日の丸」はこの権力によって作り出された皇国史観、君が代と結びつき、アジアの人々を殺戮に追い込んだ戦争のシンボルでもあります。

 

  戦争を反省したドイツ国民は、今もって戦争犯罪人を告発しつづけ、戦争推進のシンボルであったナチスのハーケンクロイツ、カギ十字はデザインとしても認めない。商品として販売することも拒否しています。

 

 今回、賛成する側から一旦出され、撤回された文案に「この際、昭和20815日以前に生起した出来事に対する認識と評価の問題とは切り離して掲げるべきである。そのことによって過去の戦争を曖昧にするものではなく、新しい世紀に日本が人々との信頼と友情を深め、世界から戦争をなくし、真に平和を希求し、恒久平和を築くための表現として位置付けるべきである」といった考えが出されています。

 

  もしドイツ国内で、「ナチスの象徴であるハーケンクロイツを、敗戦前に生起した出来事に対する認識と評価の問題とは切り離して、国会や市議会の議場に掲げよう。そのことによって過去の戦争を曖昧にするものではなく、新しい世紀にドイツがヨーロッパの人々との信頼と友情を深め、世界から戦争をなくし、真に平和を希求し、恒久平和を築くための表現として位置付けよう」こんな決議が提案されたら、ドイツやヨーロッパの人々はどんな反応を示すでしょうか。「日の丸」に対する、アジアの一般の人々の対応も同様ではないかと私は推測します。この考えからは戦争に対する真摯な反省は感じ取られません。

 

  昨今、国会はじめ地方議会において、多数によって物事を決することが、あたかも民主主義そのものであるかのような浅薄な理解がはびこっています。

しかし民主主義とはそもそも最高の権力を国民が有するということであって、多数決は物事を決定する単なる一つの方法でしかなく、それ以上でもそれ以下でもありません。

 

  当然ですが多数決で国民以外の主権者を決めることは出来ません。今回国旗国歌法の制定を「日の丸」を議場に掲げる根拠にしていますが、「君が代」の「君」を戦前のように天皇とし、その治世が未来永劫に続くようにと歌う事は、民主主義と全く相容れないものであることも改めて指摘したいと思います。

 

  「議場への掲揚は時代の流れである」とも賛成の方々は述べています。しかし時代の流れは戦争への流れもあれば、平和への流れもあります。社会進歩の流れもあれば、その反対の流れもあります。流れる方向の是非を議論することなく、長いものにはまかれろ、寄らば大樹の陰で、時の権力者に迎合していった結果が、アジア民衆2000万人の殺戮や日本人310万人の無駄な死につながったアジア太平洋戦争ではなかったでしょうか。平和と戦争にかかわる問題について冷静に客観的に判断することが求められていると私は考えます。

  さて、その流れの方向はどうでしょうか。国会はすでに大政翼賛会的様相を呈しています。日本の軍隊である自衛隊が、日章旗を掲げて戦場に派遣されました。戦争を美化する教科書も認められ、首相が軍国日本の象徴である靖国へも参拝しました。平和憲法を改悪するための国民投票法も、来年の国会に出される見込みであります。

 

  このような流れを見るとき、議場への日の丸掲揚は、「国民のための国家から、国家のための国民」にマインドコントロールする役割を果たすものであり、国民主権の原則を歪めるものであります。また反対する会派、議員に強制することは、思想および良心の自由を定めた憲法第13条にも違反するものであります。

 

 以上、私の考えを申し上げ、議員各位の冷静で賢明な判断を希望して賛成の討論とします。