茨木市議会議員 山下けいきHP

 

生きてるだけでいいじゃないですか
  ー生きる憲味ー
     えにし庵主宰 辻 光文
 
子供の頃から、
役に立つ人になりなさいョ
人に迷惑をかけてはいけませんョ
人のために
国のために
天皇陛下のために
お役に立つ人になりなさいョ
私はそう親に教えられ
育てられて来ました。
けれども
十五歳の夏
十五年戦争が終わり
天皇は神サマから
人間となりました。
今頃
天皇のために、
命を捨てなさい、
と教える親はおりません。
人のため、国のためは、
社会のためとなり、
公共の福祉に、
変わりました。
そして
今、ここまで生きて来て
フッと思うのです。
生きているだけではいけませんか。
何々のために、
「役に立つ」ということぱに、
疑問が残るのです。
東洋平和
公共の福祉
そして今は
国際平和維持活動に、
等といいます。
それが
奥深い人間の真実ですか。
漢字では
人のためと書いて
偽(いつわり)
と読みますネ。
眼を閉じて
静かに
息を調えながら
生きているだけではいけませんか。
役に立つことが
「死刑の罪を背負った
お前でも
臓器の提供で
できるのだ」
「それが愛の行為です」
と処刑前に説教され
その死刑囚は
頭を撃たれて
殺されていく、といいます。
最近の
東南アジアの
ある国の話です。
愛の名において
役に立つことが
説かれます。
役に立つことが
そんなに簡単に
愛といえるのですか。
愛
真実の愛とは
本当にそんなことですか。
役に立つって
その究極は
何ですか。
何が
何に
何を
することですか。
世の中には
すごい立派な役立ちの人とか
全く役に立たない
とよくいわれる人がいますが
それは本当ですか。
その役立ちは
「功績」といい
叙勲の名によって
ランク付けされますネ。
生きている
人のいのちって
そんなことでいいんですか。
「自分は役に立っている」
というその思いのなかに
ひょっとしたら
傲慢とまでいいませんが
何か
悲しい人間の自信が
ひそんではいませんか。
人は誰でも
いつの日か
何もかも喪失して
人に迷惑をかけなければ
瞬時も
生きてゆけない
そんな日が
必ずやって、来ます。
この役立ちの思想の
延長線上でゆくと
いつかは
誰でも
生きることの価値を失い
生きる資格をなくします。
老いるということは
そういうことですか。
病むこと、
呆けることは
そんなことだったのですか。
その時にも尚
わたしは
生きる価値
生きる資格がある
といえる人は
嘗て役立っていた
その時の
貯金の清算をしている、
そんな気ですか。
近年は
ボランテイア活動が盛んです。
それも
「情は人のためならず」と、
やがて自分に返ってくる、
いいことをしておこうと、
そう平然と
言ってのける人もいます。
この諺までが、
エコノミックな
変な話になりました。
迷惑をかける
といいますが、
生きていて
迷惑をかけない人って
本当にいますか。
毎日毎日の、
自分のウンコの、
オシッコの、
その行方を
あなたは知っていますか。
生きていることは、
量り知れない
人々に
迷惑をかけての
ことでした。
だからこそ
少しでも
「役に立つように」
ということだと思います。
けれども
役に立つ前に、
生きる資格を言う前に、
生きている、
そのいのちとは何ですか。
今は
空気も
水も
食べものも
みんな汚れて、
地球そのものが
破滅の危機に
あるのです。
それは
知能の勝った
人間たちの
人間中心の
役立ち
便利
効率と
飽くことなく求めた
その果てでした。
そもそも
人間とは
そしていのちとは
この自分とは
何なのですか。
「いのちはつながりだ」
と平易に言った人がいます。
それは
すべてのものの
きれめのない
つぎめのない
東洋の『空』の世界でした。
障害者も
健常者も
子どもも老人も
病む人も
あなたも わたしも
区別はできても
切り離しては
存在し得ない
いのち そのものです。
それは
虫も動物も
山も川も海も
雨も風も空も
太陽も
宇宙の塵の果てまで
つながるいのちなのです。
劫初よりこの方
重々無尽に織りなす
命の流れとして、
その中に
今、
私がいるのです。
すべては
生きている
というより
生かされて、
今
ここにいる
いのちです。
その
わたしからの出発です。
すべてみな、
生かされている、
そのいのちの自覚の中に、
宇宙続きの、
唯一
人間の感動があり、
愛が感じられるのです。
本当は
みんな
愛の中にあるのです。
生きてるだけでいいじゃないですか。
(一九九二年六月)