茨木市議会議員 山下けいきHP

 

 春日小学校の校歌を巡って

 

2004年6月21日 文教人権常任委員会

 

作詞 日置 実    作曲 山下虎吉

 

一、朝な夕なに 仰ぎ見る     二、至誠勤勉 ひとすじに
  千里の山の 松が枝の       正しき道を まもりつつ
  とわにかわらぬ 操もて       学の業に いそしみて
  日々に進まん たゆみなく     共につくさん 国のため
    

 

○山下委員 ちょっと話題を変えますけれども、学校の校歌というので、これもすべての小学校、中学校の分いただきました。ちょっと、この春日小学校の校歌ですけれども、小学校1年、2年、3年生の低学年の子どもたちに意味がわかるのかなと。

 例えば、2番ですかね。「至誠勤勉一筋に正しき道を守りつつ」、学びの「わざ」というんですか「ぎょう」というんですか、「学びの業にいそしみて、ともに尽くさん国のため」。これは戦前の校歌じゃないかなというふうに思いますけれども、春日小学校のこの校歌というのは、いつできたんでしょうか。「とわに変わらぬ操持て、日々に進まんたゆみなく」というような言葉もありますけどね。確かに昔は文語調といいますかね、口語調じゃなくって、こういったものが一般的やったと。私もそういった学校で過ごしたことありますけれども、こういった文語調で、内容的にもどうかなというような内容の校歌が、現在も歌われている。小学校1年、2年、3年と。こういった子どもたちに、校歌はどのように教えていらっしゃるんでしょうか。どういう意味を持った校歌だというふうに教えているのか、あるいは教えていないのか。この点、ちょっとよくわからないんですね。

 

○畑学校人権教育課長 校歌の話がありましたが、校歌は各学校、いろいろ歴史もありますし、その地域の自然を愛する気持ちでありますとか、こういう子どもに育ってほしいとか、そういう思いの中でできてきたもので、創設されたときの思いがそこに込められているものというふうに考えております。

 そういうふうな伝統を、学校としての伝統を大切にするということがあると思いますので、一概に今の子どもたちの価値観に合うのかということだけの判断で、校歌を変えていきなさいというふうな形での指導は、今のところ、教育委員会としては考えておりません。

○山下委員 学校の校歌の問題ですけれども、確かに校歌が決定される経過の中で、あるいはまた、それ以降の、その学校の歴史の中で、伝統というのは当然あるわけですから、そういったものを尊重するというのはよくわかるんですけれども、ただ、これ、春日小学校の校歌というのは大体いつぐらいに決められたんでしょうか。わかりませんか。わからなかったら、わからんでいいんですけれども。ただ、やっぱり私が思うのは、1年、2年、3年生の子どもたちは理解できないと思うんですよ。ましてや耳慣れない文語調の校歌ですよ。理解していない子どもたちに歌わせるというのは、これは非教育的な営みではないかなというふうに私は思うんです。やっぱりすべてといいますか、少なくとも大ざっぱな意味を理解したらいいと思うんですけども、私は、この春日小学校の校歌というのは、1年生や2年生、3年生は、ただ、歌わなあかんから歌ってるだけに終わっているんじゃないかなと。

 それから、文言的にも、やはり私は問題やと思いますよね。一番最後に終わるのは、国のためですよ。「ともに尽くさん国のため」なんていうのは、ちょっとやっぱり私からいうと、時代錯誤かなと。やっぱり個々の、今の憲法や教育基本法にのっとった形ですると、やっぱり自我の発達ですとか個性尊重とか、やっぱり個人を中心とした物の考え方。お互いの人権を尊重する中でこそ、国の発展につながっていくというのがトーンとして流れているというふうに思いますけれども、そんなことは一切抜きにして、ただ、「ともに尽くさん国のため」で、2番で終わっている。

 それから、「とわに変わらぬ操を持て」というのもよくわからないんですね。普通の大人も何かよくわからない文言ですよ。しかも、操というのは、ともに変わらぬという意味をその言葉の中に既に持っているんです。だから、同じ言葉が重複しているという問題点もやっぱりあると思うんですよね。ですから、これはああせえ、こうせえということはなかなか押しつけるということになるので、それはできないかなというふうに思いますけれども、そういったことを指摘した人がいたということでもいいと思うんですけども、やっぱり春日小学校の校歌の問題を、ぜひ春日小学校のほうで検討するというか、何かそんなことは要るんじゃないかなと思うんですけれども、その点についてお聞きをしたいというふうに思います。
 

○畑学校人権教育課長 春日小学校での校歌の指導についてですけども、先ほど、一番先に答弁すべきであったところ、漏れておりまして申しわけございませんでした。校歌の意味については、子どもたちにわかるように、当然、かみくだいた形で子どもたちには説明はあるものというふうに考えております。校歌の変更については、先ほど申しあげましたように、教育委員会においては指導するものではありません。


○山下委員 そしたら、春日小学校の校歌、かみくだいて教えてもらえますか。どんなことを言ってるか、ようわからないですよ。小学校の1、2年、3年に対して、かみくだいて教えてるんだったら、私は小学校よりはわかると思いますけど、私にわかるように、この春日小学校の校歌、教えてもらえますか。どういう意味ですか、これは。

 

○大橋教育長  この春日小学校の歌は創立当時につくられたものであろう。作者、作曲者にそれぞれ依頼されたのか、学校の先生が歌詞をつくられて曲を割り振っていただいたのか、そこら辺はわかりませんけれども、この校歌というのは、小学校に入って一番初めに子どもが覚えるものなんです。そして、それをずっと歌い続けるわけですから、それで誇りを持って、やっぱり自分の中に取り入れているという内容だと思います。
 僕は小さいとき、童謡を習いましたけれども、わからんままに歌ってて、今、ああそれはそんな意味やったんか、こんなんだれでもあります。その当時わからなくても、1年、2年から、だんだん親しみながら身についてきて、そして、いつかの年になって、ああ、あの校歌はこうだったんだな、それも1つの私、教育だと思いますよ。委員は「国のため」やとか、「操」やとか、言葉をつかまえておっしゃるというのは、非常に危険だと思いますね。ある種の言葉狩りだと僕は思うんです。その学校の、その時代の変遷を経てきた、創立当時の歴史を歌い込んだこの歌で、「国のため」にという、これはおかしいと、指摘があったと言いなさいと。それは当然、指摘がありましたよということは言いますけどね。

 

○山下委員 私は、春日小学校の校歌については、丁寧に、その意味も含めて教えていらっしゃるという答弁があったから、かみくだいて、これはどういう意味なのかということで、お聞きをしたいということを先ほど言ったんですね。教育長は、もうそんなもんわからんでもええねんと。そのうちわかるがなと。そのときに、そういう意味やったんかと思ったらええと言うんですけどね。これはやっぱり、私から言わせるとやっぱり暴論ですよ。できる限り意味がわかって、歌うなり動くなり、目的ね、やがてわかるからええやないかというふうに言われたら、それこそ教育的営みとは思えないものになるんじゃないですか。やっぱりできるだけ、校歌の意味もわかってもらう。その上で、それに対して、それをすばらしいと思うか、どういうふうに思うかは、これはもう個々の子どもの感性ですよ。意味なんか教えんでええということについて、私はちょっと合点がいかないし、そんなことでいいのかなというふうに思いますけれども、いかがでしょうか。

 

○大橋教育長 この校歌の件ですけども、山下委員さんは、1、2年生、理解できないからとおっしゃって、これに対して僕は反論してる。初めから歌詞わかって歌うというのは、そんなんあり得ないですわ、歌で。でも、それは出ておる学校の校歌をやっぱり聞いて、だんだん覚えていって、ある一定の発達段階で、その意味をかみくだいて教え、また将来、ああ、あの歌詞はこうやってんなと、僕はこういうことを教えてくれててんなということを気づくことも、これは効果の1つだと思うんですね。

 

 ○山下委員 校歌の問題については、やがて理解するということも1つのあり方だということですけれども、私はやっぱり歌というのは、その意味がわかって歌うほうが、よりいいのではないかなと思うんですね。茨木市の各小学校、中学校の校歌、一応、全部見させていただきましたけれども、一般的に口語体と言いますか、昔は文語体の言葉が多かったかなと、その比率が多かったかなというふうに思いますけれども、やっぱりかみくだいて、子どもたちがさっと意味がわかる、そして、それが日々の子どもたちの生活あるいは学校生活の中に生かされると、そういったものが校歌としての教育的な役割かなというふうに思うんですけれども、そういう観点から言いますと、春日小学校の校歌については、ちょっと感覚が古いし、内容的にも私は問題があるかなというふうに思いますから、その指摘をしたというだけです。